感謝

感謝

忙しさの中でも
息子の卒業式に参加できて感謝です

息子も4月から高校生です
親父の身長を追い抜いてしまいました

この冬は本当に忙しかったですが
どんな時もホ・オポノポノが励ましてくれました


これからも
ホ・オポノポノと一緒に歩みます
ありがとう
ごめんなさい
許して下さい
愛しています
平和は私から始まる(^-^)/

やっとすずさんに会えました

やっとすずさんに会えました

「あんたの町で会えますねぇ」

やっとすずさんに会えた。
映画 『この世界の片隅に』
は評判以上の最高の映画だった。
主人公や登場人物が生き生きと描かれている。
広島の呉市を舞台に北條すずという若い女性の視点から見た戦争という不条理。
このアニメ映画は凄く奥が深く、
物語以外にもいろいろな楽しみがある。
映画の枠を超えている奇跡的な作品でもある。

特に自分が感動した部分は夫婦となったすずと周作の関係だ。
夫婦の愛というものを感じた。
何よりも映画に出てくるキスシーンがとっても色っぽく仕草が素敵なのだ。
この時代の夫婦の営みがとても斬新で素敵に感じてしまった。
この映画は戦争映画という範疇を完全に超えている。
一人一人が本当に生きているのだ。
こんなアニメ映画は今まで見たことがなかった。
何よりも監督を始めとする全ての人たちの愛がこの映画の至る所に感じるのだ。
すずさんの声を女優の「のん」ちゃんがやっているがこれがまた素晴らしい。
最初から最後まで全く違和感がなかった。
それ以上にすずさんとのんちゃんが全く同じに見えてしまうほどである。
よく見ると性格や仕草等がそっくりなので驚いてしまう。
のんちゃんは本来声優ではないのだがすずさんがのんちゃんに見えた。
普段おっとりしていて穏やかな笑顔のすずさんが、
真剣な表情で夫の周作に列車の中で本音をぶつけ合う二人だけの会話場面は
正直言って萌えたし、
「ほいでも周作さん、夫婦てそんなもんですか?」
のセリフに自分が言われたようにはっとした。
(すずさん怒るかなぁ・・)
自分もすずに夫として怒られたいと感じてしまった

物語が進むにつれ、
すずと周作の愛がすごく深まっていくのが見てる側にも伝わり泣けてくる。

できればこの部分
(本音をぶつけ合う二人だけの会話)をアフレコしているのんちゃんの表情も見たかった。
その部分をテレビで演じてほしかったが(芸能界の闇の部分がまだ続いているようで)
のんちゃんを民放のテレビで見るのは難しいようなのだ。

『捨てる神あれば拾う神あり』
のんちゃんは本当に素晴らしい監督さんに出逢えたと思う。
ドラマ「あまちゃん」もよいがそれ以上に
映画『この世界の片隅に』は生きる力と愛の強さを感じる。
それはおそらく、
すずさんはのんちゃんそのものであり、
のんちゃんはすずさんそのものだからかもしれない。
いつの日か舞台または実写においても、
のんちゃんのすずさん、
すずさんののんちゃんが見られることを強く希望する。

もしかしたら映画『この世界の片隅に』は、
私たちの心の中に現実に生きているのかもしれない。

原作漫画も公式ブックも文庫小説等も買ったのはいうまでもない。
原作漫画も続編をたくさん描いてほしい。
すずさんには母親としても幸せになってほしい。



「あのー、うちらどこかで前に合いましたか?」
周作は真顔ですずを見つめ、『うん』とうなずいた。
そして、古い記憶をたどるようにゆっくり目をつぶる。
『あんたは覚えとらんか?』
「すみません」とすずは頭をかいた。「うちゃ、ただでさえぼーっとしとるもんで」
周作はすずの顔へ手を伸ばす。
『むかしからそがいなかった』
周作の手がすずの頬に触れる。
『ほいで、昔もここへほくろがあった』
顔を寄せる周作を,すずはじっと見つめ返す。
周作は優しく微笑み、すずに口づけた。
こうして、ふたりは夫婦になった-。

『この世界の片隅に』双葉文庫ノベライズ版より
ノベライズ版の文章表現も素敵ですヾ(o´∀`o)ノ

ありがとう
あいしてます

平和は「私」から始まる。

【平和は「私」から始まる。

【平和は「私」から始まる。
世の中で今一体どんなニュースが流れていようと、
あなたしか見つけられない真の平和があるでしょう】


ヒューレン先生の言葉にハッとする自分。
「宇宙の真理を学んでも
宇宙の真理を見いだしても
自分の中に平和を見いだしていないのなら、
その真理は生命の無い死んだ言葉ではないのか?」

クリーニングという行為を繰り返しながら、
自己のウニピピリ(潜在意識)を大切にして、
愛することが1番の近道と気付いた。

人は星のかけらで構成された。
そのかけらを量子学では素粒子という。
素粒子自身一つ一つに陰陽があり意識を持っているのだ。
その意識が記憶となって私の人生に現れる。
クリーニングされるまで形を変えて何度も何度も現れる。
クリーニングしたら浮かんできた思いをさらにクリーニング。
それをエンドレスに行うこと。
クリーン クリーンだ。
陰陽以前の太極すなわちゼロリミッツなる単一性に達するために生きる。
生きることはクリーニング
クリーニングは生きること
2ヶ月前に改めてホ・オポノポノを再開した。
以前と違い今まで気がつかなかったことが少しわかってきた。
うまく言葉にできないが自分の中で何かがわかってきたのを感じる。
もうクリーニングをやめようとは思わない。
クリーニングは時・場所・場合にとらわれない。
しかし、
クリーニングをスタートさせることができるのはのウハネ(表面意識)のみ。
ウハネ(表面意識)は私達が「自我意識」と思い込んでいる顕在意識である。
クリーニングをしながら自分の醜さや汚さなど嫌な部分も見えてくる。
「自分」がなくなっていく感覚も生じてくる。
それが不安につながりクリーニング作業をやめてしまったこともあった。
しかし人間の心は喜怒哀楽が自然なので、
何が心の中に浮かんで来ようとも恐れたり不安になったり怖がることもなく、
浮かんできた感覚をさらに何度もクリーニングしていけばよいのだ。
ありのままに受け入れ、
ありのままをクリーニングしてよいのだ。

紙ヤスリを使って角を丸く磨いていくように何度も何度もクリーニング。
浮かんできたものをクリーニングそしてまたクリーニング。
この作業を繰り返すのだ。
ネガティブな気持ちも
ポジティブな気持ちも
エンドレスにクリーニングし続ける。
自分が今まで「自分」であると信じていたものは
実は自己のウニピピリ(潜在意識)が持つ「記憶」だったのかもしれない。
「記憶」は真の自分ではない。
「記憶」は自分の一部ではあるが単なる影でしかない。
そして浄化すべきものなのだ。
真の自分は記憶ゼロの空間に在るのだ。

ようやく本物に巡り合えた。
思考の回り道や時間を無駄にするような自分探しはもうできない年齢だ。
できれば若い時にホ・オポノポノに出逢いたかった。
けれども
『弟子に準備ができた時、師匠が現れる』
という言葉が古来からあるように、
この齢になって
ようやくこの秘宝を受け入れる準備ができたからこそ出逢えたのかもしれない。
大切なのは今この瞬間もクリーニングし続けていくことなのだ。

聖なる存在につながるように、
自分の胸に手を当てながら自己のウニピピリ(潜在意識)に向けて


「ありがとう」
「ごめんなさい」
「許してください」
「愛しています」


聖なる存在がヒューレン先生達を通じて
全ての人たちに教えてくれたハワイの秘法
『ホ・オポノポノ』
を自分の全てと決心して心の中で今日も唱えよう。
平和は「私」から始まる。
いつかゼロリミットに届くことを
楽しみながら・・(^◇^)。

幸せになる映画

幸せになる映画
10月、実家の庭にある柿の実が今年も実りました。

忙中閑有
気が付くと暦は師走。
師走の忙しい状態にかかわらずDVDでハリウッド映画を鑑賞した。
タイムスリップ物の2本のラブストリー作品だ。
泣いた。
笑った。
そして学んだ。
この齢になって改めて人生についてそして愛について教えられた。
レンタルだけでは満足できず通販でも購入した。
ヒロインの女性が大好きになってしまったからだ。
2年前ケツメイシ「バラード」のPV松岡音々ちゃんを好きになった以来の感覚だ。
彼女の名前は
レイチェル・マクアダム
アカデミー賞助演女優にもなっている。

最初に見た作品は心温まる
『アバウトタイム』

幸せになる映画

この作品は父親と主人公の親子愛に自分を重ね教えられることも多かった。
監督が素晴らしい(^◇^)

次に見たのは彼女が主演の
『君が僕を見つけた日』
この作品はレイチェルの演技にくぎ付けになるだけでなく、
涙あふれ最高に素晴らしい。
自分にとっても特別な作品になった。
原作本も購入し現在読んでいるが、
この映画の書評をいつか書きたいとも思っている。

幸せになる映画
映画のパンフレットまで取り寄せてしまった。
それほど心に残る作品になった。


レイチェルのつぶらな瞳と可愛いえくぼ笑顔を見た瞬間、
釘付けになり多幸感に満たされる。
毎日のようにレイチェルの笑顔に癒され元気を与えてもらっている。
こんな素晴らしい女優にどうして今まで気づかなかったのだろうか?
彼女の代表作
『君によむ物語』
を以前見たことがあったけれど、
その時は何も感じなかった。

今回鑑賞した2本の映画は本当に素晴らしい映画だった。
潜在意識に焼き付いてしまい彼女のことが忘れられなくなった。
彼女のおかげで映画の楽しみも増えたし彼女の作品を全部見たくなった。
それだけでない。

妻をレイチェルだと思って会話すると,
妻がとても愛しくなった。
妻は笑っているが、
妻の笑顔とレイチェルの笑顔が重なり、
心の奥底に眠っていた感覚が少しづつよみがえってくるのを感じた。

「聖なる存在に
そして自分のウニピピリに

ありがとう
ごめんなさい
許してください
愛しています


レイチェル、
君の幸せと活躍を日本からも祈っています」
50過ぎの何の魅力もない日本のおやじファンより。


根源悪

根源悪


 晩秋の11月が今年も巡ってきた。
セイタカアワダチソウの花も濃い山吹色に変わってきた。
冬がすぐ近くまで来ている。
この季節は
「宇宙の法則」
を学びながら健康に気をつけて慎重に生活していきたい。

今回はぶなちろ版
「神義論」
の一部を公開したいと思う。


 「陰と陽」で成り立つ二元論の現実世界に自分は生きている。
我々は現実生活の中に埋没してしまうと、
意識が現実世界の三次元より1つ上の次元に位置していることを忘れてしまう。
つまり意識は二元論を包括している一元論の世界に位置しているのだ。
一元論の世界は陰陽が包括された世界でもある。
宇宙は対極図のように陰と陽が包括されお互い調和している。
磁石にもN極とS極の二つの磁極(英: magnetic pole)がある。
これらの磁極は単独で存在することはなく、
必ず両極が一緒になって磁石を構成する。

しかし私たちの意識の中に包括している陰陽は、
対立しあい火がつけばあっという間に火事になるだろう。
影と光で象徴された陰と陽そのものは本来は対立などしていない。
そこに人間の恐れや否定の意識(エネルギー)が働くと反発し、
バランスが崩れてしまうのだ。


神が善なるものならば、
悪はどこから来るのか?

悪があるところには必ず対立や憎しみがある。
ではだれが
「闇は悪」
「光は善」
と固定化したのだろう?

元々その定義は間違っているのではないのだろうか。

旧約聖書の創世記で神は
「光あれ」
という言葉で光と闇を分けたと記されている。
ということは元々光と闇は一緒であり、
互いに対立し合うことも無く光の中に闇が、
闇の中に光が含まれていたとも考えられる。

闇は悪ではなく善でもない。
光は善でもなく悪でもない。
カバラ学によるとこの世界は
「一なるもの」
の流出によって創造されたと伝えられている。

闇と光を分ける以前、
第一原因(無極なる存在)は
それまで無次元の無限なる光空間そのものだった。
しかし、
無次元の無限の光空間に一つの闇なる黒点が生じた。
黒点を自分の中に飲み込んだのだ。

飲み込んだ空間は多次元において
(部分と全体が自己相似になっ ている)フラクタル活動を始める。
(光と闇を包括している第一原因による最初の創造は
『旧約聖書』創世記の第一章一節~二章三節に記されている)
この最初の創造で第一原因なる神は
「われわれのかたちに、
われわれにかたどって人を造り・・」
といわれた。
この
「われわれ」
とは光なる無極と光の中に取り入れた闇ではないだろうか?
こうして造られた最初の霊止(ヒト)こそカバラ学でいう
アダム・カドモン
である。
ちなみに霊止(ヒト)は両性具有らしい。

創造はこれで終わりではない。
ここまでは創造の半分。
神の半身である陽の創造の部分だ。
すべては多次元においてもフラクタルしながら創造の活動をしていく。
条件としては必ず陰と陽が揃って一つとならなければならない。

第一原因からフラクタルした第二原因は
第一原因を反転させたものでなくてはならない。
つまり第一原因が陽なら第二原因は陰でなければならない。
第一原因の反転した世界。
第二原因(無極なる存在)は無限なる闇の空間そのものでなくてはならなかった。
闇の中に一点の光が生じそれを無限なる闇が飲み込んだ。

神のもう一つの半身つまり陽の影である陰による創造の活動が起こった。
(第二原因なる陰の創造神話は
『旧約聖書』創世記の第一章二章四節~三章二十四節に記されている。
エデンの園の神話は第二原因なる神の内面の象徴ともいえよう)
おそらく我々人類は直接的に陰が最初である第二原因によって創造されたのだろう。
「陰陽の法則」
と言っても
「陽陰の法則」
とは言わない。

第二原因の無限なる闇は
「根源悪」
と称するものではなかった。

ではどこから
「根源悪」
が生じ私達の意識内に入り込み、
三次元世界において実体化してしまうのだろうか?
何故神は悪を許容しているのだろうか?

聖書ではアダムとエバが
エデンの園の禁断の実を食べたことで悪が生じた(原罪)とされている。
「悪は善の欠如の状態」とか「人間の自由意思に悪が生じた」等、
古今東西名の聖書学者や哲学者達がそれなりの解答をしているが
自分はどうもしっくりこない。
かといってただの人である自分が、
難解なる神議論の本当の答えをわかるはずもない。
しかしながら、
インスピレーションで得た自分の現段階の考えを短く述べたいと思う。

「根源悪」
は神自身の中から生じている
と私は結論した。


創造の段階において神自身の中には光と闇が包括されており、
まだそれは善でもなく悪でもなかった。
では何が原因で
「光=善」
「闇=悪」
となり互いに対立していったのか?

強い衝動に駆られ生命の創造を行った神。
全ての仕事を終えた後「良し」とした第一原因に対し、
第二原因は「良し」とはいえない
「何か」
があり生命の創造を後悔した。
生命の創造を後悔したことで
(創造のフラクタルにおいて)葛藤が生じ、
その葛藤が
「根源悪」
となり具現化していったのではないだろうか?

神自身の中に生じた
「矛盾と葛藤」
は対立を生じさせ、
それがこの三次元に流出し
「悪の第一原因」
となったのではないのだろうか?

神の意識の中に生じた満足と後悔という相反する気持ちは
たちまち具現化され
善と悪に分離し
光と闇に結びついてしまったと考えられる。

「根源悪」
も失楽園により具現化されフラクタルを繰り返していく。

私達のいるこの世界は、
陰陽がはっきりと分かれてしまう
「善と悪」
が具現化してしまう世界なのだ。

この世界は第二原因の闇なる力が強く
その意識が現象化しやすい世界でもある。

このままでは闇の中に取り入れた光までもが消滅するかもしれない。
陰陽のバランスが失われ、
変化もなくこの状態のままなら宇宙の全ては収縮し、
やがては消滅してしまうだろう。
プロフィール

Author:ぶなちろ
宮城県在中、50過ぎおっさんのブログです。よろしくお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
幸せのヤナギの木
現在の閲覧者数:
幸せのヤナギの木
ブロとも一覧

~樹液の楽園~ エポック メーキング ビオネスト 
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR